「事故だって、人身事故」

「また自殺」と、まるで明日の天気でも予想するかのような軽い口調でクダリは言った。白い上着を脱ぎ捨て、大きく伸びをする姿には呆れて溜め息が漏れた。上着は中途半端に椅子にかかり、深い皺を刻んでいる。
そんな私をよそに、彼は「明日お休み。仕事お休み」と上機嫌で帰宅の準備を始める。
――外は真っ暗だ。
休憩室でもあるこの部屋の灯りが外に漏れ出し、より不気味に夜の闇を誇示させている。駅員は皆帰ってしまった今、作られる音は全てこの部屋から発せられる。孤絶されているような錯覚を抱く空間で、疲労から来る眠気を噛み殺した。
そしてネクタイを解き、クダリが脱ぎ捨てた上着を皺になる前にとハンガーにかける。
すると不意に彼は窓へと移動した。そこに張り付くように近寄り、窓の向こう側を凝視している。何か見つけたのだろうか。
ここからは、ちょうど線路を挟んで向かい側にある駅のホームが見られる。終電は発ち、事故により明日の運行が変更された今、自分たち以外は残っていないはずだった。

「あ」
「今度は何です」
「ね、またあの子いる」
「!」
「明日電車お休みなのにね」

窓から離れた彼が、その向こう側を指差した。
人が来れば自動的に電灯が点く仕組みになっているホームは、確かに白い光を零していた。その中心に、ぼんやりと人影が浮かぶ。ベンチに座り、俯いている。また、あの女性のようだ。

――彼女はほんのひと月ほど前から、ここに現れるようになった。
終電に乗り、辿り着いた終点の駅で一晩ホームのベンチに居座り続け、初発で去っていく。しかしまた翌日も終電に乗ってくる。そして同じように終点の駅に初発の地下鉄が出るまで居続ける。それを、毎日毎日繰り返していた。
一体何が目的なのだろうか。
皆目見当がつかない彼女の行動は、一般から見れば奇行そのものでもあった。
駅員の中には、彼女を気味悪がり終電の運転を嫌がる者さえいる。ここ最近は人身事故も起こっているため、尚更だった。

「ノボリ、教えないとダメ」
「ああ、確かに、お教えしなければなりませんか。仮にもお客様でございますから」

窓の向こう側を眺めながら彼は抑揚にかけた口調で言った。それにもう一度ネクタイを締め直し、上着に袖を通す。

「あの子、待つよ。だってずっと待ってる」
「地下鉄はおそらく明後日まで出ませんからね」
「違う。そっちじゃない」
「?」
「待ってるんだってば」

――クダリの言葉の意味が、わからなかった。しかし放っておくこともできずに、休憩室を出て彼女がいるホームまで向かう。

真っ白な蛍光灯に照らされた彼女の姿は、影を濃く描いた絵画のような無機質さがあった。輪郭線よりも明暗がより強調され、白黒のフィルムを見ているような気分にもなる。足音がやたらと響く夜の暗がりの中で、私の気配に気付いた彼女がおもむろに俯いていた顔を上げた。
生気がごっそりと抜け落ちた目玉が向けられる。
……ずいぶんと窶れた。
彼女とは、実は彼女がこの地下鉄に乗った当初に口を利いたことがある。あの日終電に乗り込み、終点について尚降りようとしない彼女に、訝しげに声をかけた。彼女はどこか挙動不審に地下鉄を降りていった。そして向かいのホームから地下鉄が発車するのを見て、まるで縋るように線路に飛び込もうとしていたのだ。初めは、自殺願望でも持っていると思っていた。それを慌てて止めたが、自殺というのは私の思い違いらしく、彼女は「すみません」と頭を下げてどこかに去っていった。彼女がその後どうしたかまでは見届けていなかった。

「お客様、本日の運行は突然の事故により明後日まで中止になりました」
「!」

彼女の薄い肩が震える。ひと月前と比べて、明らかに窶れて色をなくした唇が言葉を紡いだ。

「今日は白い車掌さんでは、ないんですね」
「……!」

クダリのことだろうか。硝子玉を埋め込んだだけのような目を細め、彼女は言う。ザワリと肌が粟立つ。呼吸が無意識に細くなった。

「白い車掌さんが」
「彼はクダリといいます」
「クダリ、さん。そう、白い車掌さんはクダリさん」

繰り返し呟いては確認する彼女に、奇妙な違和感が発露した。まるで、白黒の映画でも見ているかのように、現実味が遠ざかる。

「クダリさん『どこに向かうの』と、この間」
「お気に障ったのなら、申し訳ございません。クダリには、私から咎めておきます」
「いえ、違うんです」
「?」
「私は、待ってるだけで。向かう場所はなくて。待ってる。ああ、でも、自分から会いに行かないと。でも場所がわからないから、やっぱり待ってないと」
「どなたか、お待ちでいらっしゃるのですね」
「はい」

彼女は線路を眺めた。

「私が終点に着くと、彼≠ヘ終点の反対側の地下鉄に乗っていて、逆に行ってしまうんです」
「……」
「その、繰り返し、くるくるくるくる、回ってて、繰り返して、会えないまま」

会えないまま
彼女はそれだけを繰り返した。
彼女が下りの地下鉄から終点に着くと同時に、彼女の待ち人が上りの地下鉄で発ってしまうから、すれ違ってしまうということだろうか。ならば時間を変えるなり連絡をするなりして、都合を合わせれば良いだろうに。つい眉をひそめると、彼女はびくりと肩を震わせた。そして傍らに置いてあるあるバッグから携帯を取り出す。それを耳にあてがい、彼女は繰り返し「会いに行くよ」と呟いた。そしてまるで何かに引かれるようにその場を去っていく。私など存在していないかのように、彼女は一度たりとも振り返らなかった。


後日、地下鉄の復旧作業も終わり、通常運転になった頃、彼女は再び姿を見せるようになった。
私はふと彼女が言っていた「終点に着くと向かいの地下鉄から行ってしまう」という言葉を思い出す。それに終電を担当することが多いクダリに尋ねた。

「上りの終電に、男性は乗っていますか」

クダリは一瞬だけ目を丸くした後、不機嫌そうに言葉を返した。

「ノボリ、あの子と話した?」
「……ええ」
「なら、わかるでしょ。あの子待ってる。でも、待ってる人、絶対来ない」
「ですから、終電に乗っている男性に彼女に会うよう説得を」
「だから、終電には誰も乗ってないんだってば!」
「――!」

誰も、乗ってない?
背筋にひやりとしたものが駆け抜けた。

「僕、ちゃんと話した。あの子、僕の話信じない」

『きみ、どこに向かってるの? ここ終点』
『待ってるんです』
『待ってる?』
『終点に着くと、反対側の地下鉄で、彼が逆に行ってしまうんです』
『きみ、下りに乗ってここまで来た。じゃあ、待ってる人は、上りの終電で行っちゃう?』
『そう、ですね』
『毎日?』
『はい』
『それ、おかしい。僕、上りの終電何度も運転した』
『?』
『でも、誰も乗ってない』

彼女は、誰を待っていたのだろうか。
それからひと月ほどして、再び人身事故が起きた。何でも自殺らしい。クダリがまた以前と同じようにそう口にした。
……余談になるが、その前回の事故では男性、今回の事故では、女性が線路に飛び降りたのだそうだ。

以来彼女を見ることはない。
彼女は、待ち人に会えたのだろうか。待ち人が彼女を呼んだのか、彼女が自ら待ち人のもとへ行ったのかはわからない。しかし、彼女と私たちが会うことはもうないのだろう。

私は花を買って、彼女が座っていたベンチの傍らにそれを供えた。







20110308
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -